当別院僧徒 教化活動レポート『思いは東北!』~第10章~(更新日 2023/1/24)
『思いは東北!』当別院僧侶が見た東北の11年後 追悼旅
第10章 患者さんとともに 雄勝病院
雄勝町はカツオ、マグロなどの沿岸漁業とワカメ、ホタテ、海苔や牡蠣の養殖が盛んな町です。合併により石巻市に組み込まれています。
そして硯石が特産の町でもあります。宮城県北東部に位置し、太平洋に面しています。今回が初めての訪問です。
雄勝町は女川湾を挟んでいます。
湾内は比較的穏やかですが、11日には16mの津波が襲っています。
当時、雄勝病院には40人の入院患者がいました。ほとんどが寝たきりです。
聞こえてくる津波情報では6m、病院の立っている海抜と約6mの防潮堤により安全かと思いながらも、患者さんを上の階へ移動させます。
1階、2階が浸かり、3階へ、さらに屋上へと移動しますが、津波は屋上に移動した患者さん、職員を飲み込んでしまいました。
患者さん40名(行方不明3名含む)と院長以下職員24名が犠牲となられています。
津波に流されながらも救助された職員は6名でした。
「患者を助けようとして、それでも自分の身が危険だというときは、自分の命を守る行動をとらなければいけない。医療従事者なら全員知っていること」
こんなことをコメントしたのが、日本災害看護学会理事長だとか。
犠牲となった病院職員に対する侮辱です。
39年間病院事務職員として、ノンライセンスながら医療人としての誇りを持つ私には、この行為を讃美することなく、侮辱とも受け止められる発言は許せません。病院で一番大切なのは患者さんです。死が頭をよぎったのは津波に飲み込まれる瞬間で、それまで一生懸命に対応したのでしょう。
重ねていいます、病院職員に対する侮辱にほかなりません。
このように考えるのは私だけでしょうか?
「雄勝病院犠牲者慰霊碑」
雄勝病院の跡地に建てられています。
3.11 当日には元職員の方が、職員・患者さんの遺族が手を合わされます。
ここでも拙いお声明を・・・
雄勝病院犠牲者慰霊碑
慰霊碑右手にありますお地蔵様です。
なんと愛らしくて微笑んでおられます。
南無阿弥陀仏、合掌
雄勝(中央)病院は今回の経験を踏まえて、移転したと聞きます。
ここで兵庫県の問題を提起します。
阪神淡路大震災で液状化現象(地震において地面が液体化すること)に苦しんだ神戸市立中央市民病院、倒壊は逃れたもののエレベータが使えなくなりました。
震災後のことです。県立こども病院、須磨区の高台にありましたが老朽化に伴い、ポートアイランドに新築移転しました。
慰霊碑 右手側のお地蔵さん
中央市民病院もポートアイランド内での移転、どちらも南海トラフ地震では津波しかり液状化現象にみまわれます。ポートアイランドは海を埋め立てた人工島です。そして、淡路島にある県立淡路病院、老朽化に伴い海に近い場所、これも人工島に移転しました。それぞれの病院は3次救急等を扱う重要な病院です。
神戸市も兵庫県もその安全性について、各方面からの反対も聞かずに安全性を無視して建設に至りました。安全性より経済の発展を優先させました。
東日本大震災での石巻市の医療体制です。
海岸に近いところにあった石巻市立病院は、津波により医療の提供どころではありませんでした。震災前に内陸部に移転していた石巻赤十字病院は、津波被害はなく、一部は地震による機能の障害があるものの、ほぼほぼ震災直後よりマックス以上に機能しました。DMAT(災害派遣医療チーム)の拠点となっています。
兵庫県、神戸市の行ったことは、南海トラフ地震に襲われると考えられているにも関わらず悲しいことです。自然の驚異は人の考え、予想などをはるかに上回ります。
阪神淡路大震災しかり東日本大震災しかりです。
何やら批判めいたレポートになってきました。
ご気分を害された方には、お詫びいたします。
さて11日は南三陸町に始まり、大川小学校に続いての雄勝町病院でした。
大川小学校から雄勝病院までは、車で20分弱かと思います。
雄勝病院へは女川へ向かう国道398号線から左折します。左折場所が分かりづらいので、行かれる方はご注意を。
雄勝病院から女川町へ車を進めます。30分~40分くらいを要します。
*乱文、誤字脱字をお許しください。
*犠牲者のデータは2022 年 3 月、原発避難者のデータは 2022 年 2 月のものです。
*レポートは自由にお使いください。
*追悼旅の実施にご理解、ご協力を賜りました方々に感謝申し上げます。
参照元 宗学堂 当別院僧徒 教化活動レポート『思いは東北!』~第10章~