覚如上人より後、善如上人、綽如上人、巧如上人、存如上人と、御歴代が本願寺住持を継職されました。その間も、浄土真宗の御教えを有縁の方々に広める教化活動は、様々な形でなされました。しかしながら、現在の教団につながるような、教化の実というものは、蓮如上人をまたなければなりませんでした。
蓮如上人は、存如上人の長子としてお生まれになられ(1415)、わずか6歳にて生母と生き別れ、衰微した本願寺で継母如円尼のもと辛い少年時代をおくります。苦しい日々のなか蓮如上人は、親鸞聖人の『教行信証』をはじめとする御聖教に救いをもとめ、表紙が破けるほどに読み耽ります。17歳にて、信心獲得の喜びを知った蓮如上人は、天台宗青蓮院にて出家得度します。
父の存如上人が歿して後、本願寺第8世住職を継職した蓮如上人は、親鸞聖人のお示しになられた浄土真宗の御教えに立ち返るべく、まずは天台宗に関連した本尊や荘厳を総てあらため、御本尊を「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号に制定されました。その上で、自身が親鸞聖人の法燈を正しく伝える善知識であるとの自覚に立ち、親鸞聖人と自身の連坐像を制定し、御本尊とともに下附されたのでした。さらに蓮如上人は、門徒へ説教をおこなう時に座っていた高座を取り払い、平座にて門徒と膝を突き合わせ、ともに信心について語り合うようにしたのでした。
蓮如上人がはじめられた、従来とは全く違った布教教化のやり方は、近江国(現滋賀県)を中心に大いに成果をあげ、大谷の本願寺には参詣者が引きも切らず参るようになり、多くの御念仏を悦ぶ同行が誕生することとなります。
しかし、こうした動向は、比叡山を大いに刺激することとなり、延暦寺の衆徒によって、大谷の地にあった本願寺は破却されてしまいます。 だが、こんな事では蓮如上人の布教教化への熱意は無くなることはありませんでした。
蓮如上人は、大津三井寺の南別所に親鸞聖人の御真影を一時預けて、布教の新天地を求め、北陸の地へと旅立たれます。その結果、辿り着かれたのが、越前国(現福井県)吉崎です。
蓮如上人は、吉崎の地にて、より多くの者たちに信心を獲得させるべく、様々な布教方法を考案されました。門徒へ宛てた手紙という形式でもって、浄土真宗の御教えを示す「御文」や、御本尊として門徒に下附された草書体の六字名号、そして門徒が自宅でも勤行が出来るように、木版刷りにて開版された「正信偈」と「三帖和讃」。こうした斬新な布教手法によって、かつて「虎狼のすみか」の山であった吉崎御坊には、多くの門徒が群参し、またたく間に巨大な門前町が誕生したのです。
蓮如上人のもとで形成された教団こそ、現在の本願寺教団の礎となるべきものでした。よって、蓮如上人は親鸞聖人の開顕された御教えを、浄土真宗として開立された、浄土真宗開立の祖とよぶべきお方なのです。