明治、大正、昭和と時代は下り、人類史上最大の戦争となった第二次世界大戦は、日本の敗戦(1945)によって終結いたしました。戦後の苦難を経る中、日本は心身ともに豊かな国の復興を目指し世界第二の経済大国となりました。しかしながら、経済的に豊かになる一方で、物質面ばかりを追い求めたゆえに、心の問題をないがしろにしてしまった結果、大きな混迷をむかえることとなります。
かつて地域にある東本願寺宗門の末寺(手次寺)は、本山たる東本願寺に上山参詣できない門徒にとって、本山にかわる地域の心の帰依処として、人々の生活の上でなくてはならない場所でありました。江戸時代の寺請制度の名残もあり、本山、並びに末寺は村の門徒が皆で護持していくものであり、末寺の住職は本山からのお預かりの門徒(預かり門徒)として、彼らに本山から学び、いただいた本願念仏の御教えを手次し、導いていく責を担っておりました。
しかし、戦後の高度成長期にはじまる都市化現象は、農村部の多くの若者を東京等の都市へと向かわせました。かつて、人々が生活する基盤であった村落は、徐々に過疎化の道を辿ります。本山、並びに末寺を支える門徒も、世代交代を果たせぬまま、高齢となっていきました。
一方の都市部では、地域との関わりが薄れるにつれて、寺院や仏教との関わりも希薄になり、門徒としての意識が希薄な方が増えてきました。また、戦後の日本国憲法は政教分離をうたい、教育の現場から宗教感情に基づく生活規範を教える場がなくなりました。その結果、人間として生きる目的を見失った方が増え、経済成長ばかりを目指す空虚な時代が到来したのです。
こうした時代状況は、やがて東本願寺宗門僧侶の意識にも大きな影響を与えていきました。僧侶として、何よりも大切にすべき仏祖、並びに本山への御崇敬の念を忘れ、組織としての宗門教団の体制ばかりを護持していこうという意識が、一部の僧侶のなかに芽生え始めたのです。
戦後、東本願寺第24世法主闡如上人は、荒廃した人々が本願念仏の御教えに出会って救われるべく、大谷智子御裏方とともに布教教化活動に御尽力されてこられました。特に、戦後間もなく厳修された蓮如上人450回御遠忌法要は、50万人を超える浄土真宗門徒が、東本願寺へと群参したのでした。
しかし、御崇敬の念を忘れた僧侶の一部(大谷派僧侶)が、当時流行していた反体制的な革命思想に感化され、教義を根底から覆し、親鸞聖人から続く血法一如の法統を廃絶し、東本願寺宗門を乗っ取ろうと企てたのでした。
明治維新後、東本願寺宗門は御崇敬の対象である本山東本願寺と、それを包括する法人である真宗大谷派によって構成されていました。しかしながら、昭和62年(1987)に真宗大谷派は闡如上人が住職をつとめる東本願寺を、法的に解散消滅させ、寺院でも本山でもない単なる礼拝施設である「真宗本廟」としてしまったのでした(昭和の法難)。これによって、全国にいる浄土真宗門徒にとっての心の帰依処である本山東本願寺は消滅し、真宗大谷派は東本願寺宗門とは全く異なる宗教団体(末寺の組合組織)になり果て、東本願寺第21世法主厳如上人の悲願だった東本願寺の原点ともいえる「勧学布教・学事の振興」という大切な役目が変節させられたのでした。
闡如上人は、東本願寺の法統を護持するため、東本願寺宗門の正常化のために、様々な諸策を講じられました。しかしながら、失意のなかでに遷化されることとなります。