浄土真宗開立の祖、蓮如上人は吉崎御坊を拠点に北陸一帯に精力的な布教を続けられました。その結果、北陸一帯にも御念仏を悦ぶ同行が多く誕生いたしました。しかしながら、蓮如上人の胸中には、かつて一度破却されてしまった本願寺を再建し、大津三井寺にお預けした親鸞聖人の御真影を御安置したいと思われておられました。
その思いを実現すべく北陸の地を後にされ、親鸞聖人の御真影をお迎えし、京都山科の地に本願寺を再興されました。再建された山科本願寺は、将軍足利義政の正室である日野富子によって「仏国土の顕現」と称されるほどの壮麗さを極めたと伝えられております。
蓮如上人は、御子様方とともに関西の各地を布教に歩かれ、門徒の教化に努めておられました。そうした中で、蓮如上人は寺務を五男の実如上人に御譲りになり、実如上人を後ろからお支えになられたのでした。
その後、蓮如上人は大阪の石山の地に、坊舎(大阪御坊)を建立され、お入りになられました。この大坂御坊跡は、現在の大坂城であり、今でも「蓮如上人袈裟掛けの松」がひっそりと当時の名残を伝えております。
本願寺教団を盤石の体制に整えられた蓮如上人は、その御苦労もあって、体調を崩されます。「生老病死の四つの苦しみからは逃れられぬ」、自らの死期を悟った蓮如上人は、大坂御坊で最後を迎える準備をいたします。しかしながら、一生をともにした親鸞聖人の御真影に、最後のご挨拶をしたいと山科本願寺へと御戻りになり、3月25日に御遷化されました。(1499)享年85歳ことでありました。
蓮如上人が遷化されて後、跡を継がれた実如上人は、蓮如上人の御育てになられた本願寺教団の制度を整えられました。特に、草書体六字名号や絵像本尊の下附は、蓮如上人以上に精力的におこなわれます。このご尽力によって、門徒が集う寺院や道場が各地に多数誕生し、さらなる多くの御念仏を悦ぶ同行が誕生します。
実如上人は、蓮如上人の布教の要であった「御文」を集め、子の円如上人とともに、多数の御文から80通を選び、5帖にまとめられます。実如上人が選ばれた5帖80通の「御文」は、『帖内御文』として、現在も本願寺宗門の勤行にて拝読されております。