本願寺第8世法主蓮如上人は、「聖人一流のご勧化のおもむきは ただこの信心一つにかぎれり」と 浄土真宗の御教えを頂く上で、最も大切なことは信心だと仰せらました。
信心がなければ、また信心を獲ることに勤めなければ、それは本当の意味での浄土真宗門徒とはいえないのです。私たちはそれぞれに異なった価値観、正義感、倫理観をもって同じ世界を生きています。いわばそれぞれが尺度の違ったものさしをもっているようなものです。他人の存在や意見が自分のものさしと異なったものであれば、親兄弟であっても敵味方にわかれてしまう現実を生きているのです。それは苦しみを生む種に他なりません。
一人一人がそれぞれの命を生きているという真実は、本願に照らされ明らかにされ、自分自身が煩悩熾盛である身であるという現実を突きつけられるのです。現実を目の当たりにし、浅ましい私であるという自覚は、慚愧の念へと転じ変わり、そのような者を目当てとして、すくう佛は阿弥陀如来ばかりであったと頂いた時、この上ない感動に包まれる、信心獲得の機縁となるのです。
信心をいただいて、私たちは「生きている」いのちではなく、阿弥陀如来の大いなる願いのなかで「生かされている」いのちであることに気付きます。
信心は、自らの信じる力を指す言葉ではありません。それこそ各々の智慧才覚の違いによって異なった信心となってしまいます。真実の信心は、本願に出会い、阿弥陀如来より私たちが賜わる心なのです。ですから、浄土真宗では、他力の信心と呼ぶのです。